ビル・ゲイツとスティーブ・ジョブズ

共通点

新技術への着眼点の速さ

ジョブズとビルは両者とも、当時は一般的ではなかったゼロックス社のGUIという技術に目をつけていました。この目の付け所が業界のどの企業よりも早くAppleMicrosoftなどを世に出すことが出来たのではないかと思います。

現状に満足しないハングリー精神

両者とも、それぞれが出した製品が世間に高く評価されました。しかし莫大な利益を手に入れて、資産を得てもなお、より良い新しい製品を作り続けることで製品の性能だけでなく、企業としても向上を目指していたのではないかと思いました。

目標に向かってやるべきことへの自覚

自分が何をしたいのか先を見据えて、そのためには何をどうすべきか、自分はどのように動くべきかを理解して行動できたから成功に繋がったのではないかと思います。

相違点

部下への姿勢

ティーブはどちらかと言えば職人気質

まとめ

以上が挙げられます。どちらにしてもアメリカの偉大な経営者であり情報通信産業のパイオニアです。人の上に立つにはカリスマ性、人間力、様々なものが問われますが、結局はついて行きたい人がどちらの考え方に傾いているか次第だと私は感じます。ここで彼らのそれぞれの名言をいくつか紹介するフォーカスグループでプロダクトの方向性を決めるのは、きわめて難しい。多くの場合、人は具体的なモノを見せられるまで、自分が何を欲しいかわからないものだ。スティーブ・ジョブズイノベーションには失敗がつきものだ。大切なのは、そのことをすぐに認めて、他のイノベーションを成功させるために全力を尽くすこと。スティーブ・ジョブズ

私は物事をとことん突き詰めるのが好きなんだ。 ...
毎日毎日「勝ちたい」という気持ちで出社しなければならない。 ...
一心不乱に働くこと、ベストを尽くすことが嫌だというなら、ここは君のいるべき職場ではない ...
成功を祝うのはいいが、もっと大切なのは失敗から学ぶことだ ...
5. 反対があるのは健全なこと。ビル・ゲイツ

 

尚巴志

尚巴志は1406年に中山王・武寧、1416年に北山王・攀安知、1429 年に南山王・他魯毎を討ち、三山を統一した。中山世鑑等の史書によると、 武寧や攀安知は暴君で、癖のある人物像であったとされている。諸按司は、その中で若く英明な尚巴志を慕うようになり、彼の側についたという。さらに尚巴志は都市建設においても才能を発揮している。首里城の創建時期は不明だが、本格的な整備は尚巴志の時代に行われたとみられる。城の拡充だけではなく、周辺の環境整備を含めた大規模な首都建設事業だった。首里城はその造りからみて、護佐丸が築いた中城グスクのような戦に備える城ではなく、外国の使者を迎える「国の顔」として造営されたものと考えられている。この王城建設事業の規模の大きさを示すものとして、大里から首里まで半間ごとに人夫を 立たせて、リレー式に大里城の石を首里に運んだという首里の伝承がある。1427年に建立された「安国山樹華木之記碑」によると、王城の北に池を掘り、 樹華木を植え、城外に庭園を造営したという。池が現在の龍潭、樹華木を植えた場所が安国山(現在のハンタン山)とされ、風水を取りいれて明の王宮にならったとされている。 また翌年の1428年には城門外に首里城の築城を記念した中山門を建てた。当時、那覇首里とは隔てられた浮島と呼ばれていたが、島の南は旧来の港に比べて深く、当時の大型船が入港できる数少ない入江だった。三山統一後、尚巴志はここを港として整備し、琉球の玄関口に定めたと考えられている。

 


間切制度を確立させる等、のちに続く琉球王国の施政体系を整えた。尚巴志は間切制度という現在の市町村ともいえる行政単位を確立させた。間切制度の確立 は沖縄における地域自治システムの誕生とも捉えられる。地方と首里王府を結ぶ宿道を造ったといわれる。さらに早馬を使って、情報を伝達させていく宿次という情報伝達の体制を整えた。これによって首里からの情報を各地に、あるいは各地からの情報を首里に、間切番所を経由させて伝えるという国内の情報収集システムを確立させた。

 


鉄を入手し、農具を造り、農民に分け与えたことが農業生産性を高め、統一の足固めとなった。尚巴志が農民のために自身の剣と鉄を取り換える逸話からは、彼には早くから先見の明があり、指導者としての素質を有していたことが伝わる。尚巴志が少年の頃、鍛冶屋に命じて3年がかりで作らせた剣があった。ある日、与那原の港に来た大和商人がその剣を求めた。 尚巴志は商人と交渉し、船一杯の鉄塊と剣を交換することになり、そうして手に入れた大量の鉄を、彼は百姓に分け与え農具を作らせた。百姓たちは感服し、みな尚巴志を敬うようになったとされている。また、

稲作の二期作を導入したもしくは推進した可能性が高い。当時の最新の農業技術だった二 期作と、鉄製農具の導入によって農業集落を増加させ、すなわち国力を増強し、それに支 えられて、第一尚氏が生まれたとみることができる。

 


海外交易を拡大するとともに、冊封体制を通じて王国の政治経済力を強めた。尚巴志の鋭い先見性は海外交易においても大きく発揮された。彼は東南アジアとの貿易を 隆盛させた。シャム国との活発な交易から始まり、スマトラパレンバン、ジャワとの通 行も行なった。この南方貿易の展開により、進貢貿易をはじめとする海外交易は活気をおびていく。これら南方物産に、琉球日本物産を加えて中国進貢品とし、日本交易には中国製品・南 方物産を用い、朝鮮交易には南方・日本・琉球物産を中心にというように中継貿易的な展開がなされていく。尚巴志の時代の交易を通して、三線や紅型や泡盛といったものがアジア各地から伝わり、後の豊かな琉球文化の原型となっていく。尚巴志は明との交易も盛んに行い、交流を活発にした。尚巴志の時代、明朝の使者の柴山 が1425年以来冊封その他で五度も来琉している。その柴山は大安禅寺、下天妃 宮を創建するなどの貢献をした。明との交流を活発にすることで、その文物を取り入れる ことに努め、国を治めることに活用した。懐機(かいき)という久米村の明人を参謀として登用し、内政、外交の担当として重用した。また、朝鮮との通交の際には対馬倭寇の早田六郎次郎の船に使者を便乗させた。こ のように尚巴志は積極的に外国人を登用するなど常に国際的な視点を持ち、そのことで次々と的確な政策を打ち出すことができた。

 


15世紀に李朝朝鮮と日本の外交に活躍した李芸(りげい)という人物がいる。李芸は、倭寇に捕らわれて売られた朝鮮人を連れ戻すため、尚巴志が北山を滅ぼした1416年に琉球に もきており、44人を連れ帰った。尚巴志がこれに協力したと考えられている。尚巴志はこ のように人情に厚く、当時の国際政治をよく理解し、多忙な中でも何を行うべきかを決断 できた人物であった。三山統一前から室町幕府4代将軍・足利義持、三山統一後には6代将軍・足利義教と書簡を 交わすなど、尚巴志と父思紹は日本とも通じ、琉球の統一王であることをアピールしていた。

 


佐敷の「鬼鷲」として知られ、「豪胆にして志高い」と称えられる。

尚巴志はその人となりを王府の史記で「巴志為人肝大志高雄才蓋世」(巴志の人となりは、 豪胆にして、志高く、世を圧倒するほど雄才である)「球陽」と称えられるなど、若いときから人の心をつかむカリスマ性を備えていた。尚巴志はまた知謀にも優れており、南山滅亡に関する伝説は彼の戦略家としての側面を表 している。かつて南山の高嶺間切の屋古村というところに嘉手志川という泉があったが、 時の南山王・他魯毎は贅沢な人で、尚巴志の持つ金屏風を欲しがった。他魯毎尚巴志に 申し入れると、尚巴志は嘉手志川となら換えようと返した。そこで他魯毎は喜んで取りかえた。そして尚巴志は自分に従う百姓にはこの泉の水をやり、従わないものには使用を禁じた。そのため百姓たちは巴志に味方するようになり、南山はついに亡んだという。

尚巴志が亡くなった時、国相の懐機が中国道教の本山に送った手紙に国民が皆号泣した様

子が記されるというように、尚巴志が人々から敬愛されていたことがうかがえる。

 


参照URL https://www.city.nanjo.okinawa.jp

護佐丸について

1390年頃山田グスク按司の三男として生まれる。幼少期の名前は眞牛(まうし)と呼ばれていた。護佐丸の先祖は元々北山の今帰仁按司だったが、戦いに敗れて山田グスク按司となった。青年期になると琉球統一のための戦いの中で、一族の宿敵でもある先今帰仁城按司攀安知(はんあち)を討伐する機会を得る。その後、当時仕えていた尚巴志と共に、今帰仁城を攻め落とすことに成功する。

 


1420年頃から護佐丸は、北山討伐の後、数年だけ今帰仁グスクにて北山の監守を務める。読谷山の座喜味に築城し且つ、読谷山に戻ることを尚巴志より命ぜらる。座喜味は地形的に小高い場所にあり、地盤が弱く、本来は築城には不向きな場所であった。そんな悪条件にもかかわらず、かつて按司を務めた山田グスクの城壁を再利用、離島などからも人手を集めるなどして、通常よりも早くグスクを完成させる。この頃から築城の天才と呼ばれるにたる才覚を表し始める。

 


1439年に尚巴志が逝去し、尚忠が3代目の王となる。これを機に護佐丸は中城グスクの按司となる。一説では中山で勢力を強めていた勝連按司・阿麻和利を牽制し、首里琉球王府)を防衛するためだったと言われている。

中城グスクにおいては増築・補強を行い、籠城に備えて水源の確保などを施した。この頃、後に6代目の王(尚泰久王)となる越来王子に自分の娘を嫁がせて、より地位を高めていった。

 


1450年頃、相次ぐ王の交代、志魯・布里の乱で首里城正殿が全焼、勝連按司・阿麻和利が勢力をさらに強めたことなどが理由で、琉球王国の情勢は一気に緊張が高まる。そこで6代目の王、尚泰久王は即位後、情勢の安定化を図るため、阿麻和利に自分の娘を嫁がせるなどしていたが、護佐丸・阿麻和利の乱が巻き起こる。

 


護佐丸・阿麻和利の乱は一説によると阿麻和利が当時の王、尚泰久王に「護佐丸に謀反の疑いあり」と吹聴したことが事の発端であると言われている。自分の忠臣が謀反など起こすはずがないと、最初は信じていなかった尚泰久王だったが、家臣に中城グスクを偵察をさせたところ、なんの指示も出していないにもかかわらず、武具を揃え、兵を訓練するなど軍備万全の状態であった。これを知った尚泰久王は、謀反の準備という風に捉えてしまう。その後、尚泰久王は阿麻和利に対して「護佐丸の討伐」を命じる。しかし、護佐丸は勝連半島で勢力を高めていた阿麻和利の脅威から王府を防衛するための対抗手段として、軍備を整えていたとされている。しかし王からの疑念も晴れることなく、討伐は遂行されることとなる。中秋の宴をしていた所を阿麻和利率いる王府軍が攻めてくると、護佐丸の家臣たちは応戦を願いでたが、王府の旗をを確認し、王に逆らうことは出来ないといい、応戦をしなかった。王への忠義と謀反のの心はなかった護佐丸は、妻子ともに自害をしたとされている。唯一、三男の盛親だけは、乳母と共に乳母の故郷である糸満に逃げおおせる。後に一族の復興をはたしている。

阿麻和利が護佐丸を討った後、今度は阿麻和利が尚泰久王を討とう目論む。しかし、阿麻和利の妃、王の娘でもあり護佐丸の孫娘にあたる百度踏揚がその家臣の大城賢勇(うふぐしけんゆう)に見破られ、勝連城と共に滅亡する。

参考URL

http://gosamaru-nakagusuku.com

メルカリの顧客対象と差別化について

株式会社メルカリの業種は情報・通信業であり、事業内容はフリーマーケットアプリ「メルカリ」の企画・開発・運用が主である。顧客対象は個人間でで手軽に販売・購入を行いたい不特定多数の顧客だが、身の回りの商品をすぐ売りたい10代〜30代の女性の利用者多い。差別化戦略 ライバル企業のヤフオクは似たような事業内容ではあるが、本質は違うものだと感じた。ヤフオクは典型的なネットオークションにある「競り」の感覚が強く、高く売りたい値段が高騰しても欲しい人が利用者に多く、メルカリは「共感する人に売りたい」そして「安心と納得の元に買いたい」という利用者が多いという決定的な差がある。メルカリはスマートフォンのアプリから始まった企業であり、ヤフオクのアプリはもちろんあるが事業としての起こりがそもそも違うと言える。スマホアプリ故にヤフオクよりもシンプルで顧客のニーズ、サービスの改善などに迅速に対応している点からもパソコン主体のヤフオクと差別化することに成功している。

画期的なアプリとして今となっては様々な人が利用しているメルカリだが、このように市場のニーズをしっかりと掴み、要所を抑えていくことで成功に繋がった事業戦略の良い例だと言えるだろう。

 


参考URL  株式会社メルカリhttps://about.mercari.com

株式会社 Yahoo!JAPAN https://about.yahoo.co.jp/service/

多彩なアントレプレナーシップ

社内ベンチャーPart2「無印良品松井忠三」の事例

 


世界観を大事にするライフスタイル提供

V字回復をなしとげた

1つのチームとして成果を出す。

原点を見直せる機会をねらって

ホテルビジネスを始める。

誰がトップになってもブランドの価値は変わらない

個人の能力に頼らない経営

 


現場の思いを汲み取る大切さを学ぶ

セゾンはデータより個人の能力値重視

 


権威に唯唯諾諾として従うやり方に

反発。

部署同士の引き抜きが横行

理不尽な人事異動に対して

反発の末に左遷

無印の最初のキャッチコピーは

「分け合って安い」

業務の統一「マニュアル化」を測る

写真付きで細かい解説

現場からの改善要望を受け付けている

業務変更の伝達

 


型破りな改革

発注業務を自動化することで

反感を食らうが、社風に

逆らうことができると実感

業績がどんどん上がっていく

 


一人一人の持つ経験や知識を

集めた上でひとつの仕組みとして

全体で使う。

ベンチャー企業の経営で重要と言われる様々な要因は、このように企業が実際に失敗から成長や経験を踏まえて培っていくものである。ある程度の定義付けはできあがっているが、今世の中に存在するそれらの要因が全てと言うのは一概には言えない。これからも多くの企業は経営者としての観点と現場で働く社員の観点、双方の意見を取り入れて次なる成長を目指していくことが企業の成長そのものにも繋がっていくと私は感じる。

沖縄の中小企業

島マース

社長自らが本土のメーカーとの競走や

距離感を縮めるためにトップセールスを行う。年間150日。商談なども自ら赴いて行う。

又吉社長 足で稼いだ分実績が伸びる。

という信念を持っている

着眼点などを認められている。

 


ホクガン

製造する上で輸送コストが不利な沖縄

県外に工場を構えている。

社長は食の欧米化に危機感を持つ。

琉球料理という沖縄の伝統を取り戻したい。

沖縄独自の食材を製造

沖縄ブームにより沖縄の食材が注目

輸送コストが高くてコスト高になり

売れない。

新鮮さが売りなのに輸送時間が長い

↓↓↓

思い切って現地に工場を作る。

本土と差別化しやすい

島豆腐を主軸に競走を測る。

新たなマーケット

大阪営業所開設

人口が多いところ⇒首都では消費が多い

ロゴを変えたのは英文字に

世界に向けて

経営者の創意工夫に委ねられる。

 


みつわ産業

食品容器の卸売

消費が活発になることを予想し

競争相手も少なく需要が多い

食品容器に目をつけた。

地場のスーパーがあちこちに誕生

そこに得意先として売り込む

時代の潮目を読む

バブル崩壊直後にあえて

大型投資を行う

不景気に投資を行うことで

安く作れる

商品の多くは県外から輸入

 


中小企業ではよく見られる

社長自らがトップセールス

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政策とイノベーション

国・自治体による中小企業政策

①中小企業政策とは

政策立案の主体 ⇒誰が立案を制作しているか。                ↓↓↓

第一の政策主体・・・国の内の中小企業庁

経済産業省の外局組織

経済産業省は内局。その外側に様々な

外局団体があり子会社のようなもの

第二の政策主体・・・自治

都道府県と市町村の2層からなる。

(例)県の政策と市の政策は別

 


中小企業基本法と支援体制

・政策立案の頂点は、中小企業基本法

・中小企業支援体制

中小企業庁⇒各政策実地機関へ

通達予算配分⇒様々な支援が中小企業へ

 


②国による中小企業政策

・63年基本法(1963〜99年)

1963年に中小企業基本法基本法)が制定される。

二重構造の底辺。弱者。問題を

抱えた存在という認識。中小企業を近代化させよう。同業種の組織化(組合いづくりなど)事業の共同化

・99年基本法 (1999〜2013年)

・63年基本法を大幅改正

中小企業新事業活動促進法(2005年)制定へ⇒異業種も含めてつながりの強化へ

・13年基本法(2013年〜現在)

・99年基本法を部分的に改正

小規模企業の問題の深刻さを認識、支援の拡充

自治体による中小企業政策

99年中小企業基本法から自治体は国と対等な政策立案の主体に。

(それまでは国を頂点に。全国的にやや画一的な政策がなされていた)←「地方の自立」という政策的前提。

 


④現状  各自治体による政策の

多くは画一的

「企業誘致」「融資・信用保証」「地場産業支援」

・地域間の経済格差の拡大

←人口の減る地域と増える地域、

東京一極集中

 


・課題 自治体の中小企業政策の予算・人員の確保・・・現状では不十分。

自治体財政の厳しさ

←政策を担う人材の不足

←それ故に独自性を出すことの難しさ

・国・都道府県・市町村の制作連携を取る。←現状では三者がばらばらに支援し不効率である。

それぞれの立場を明確にして連携を取ることが課題。

根本的に地方は資源や人材が不足しているが連携をとることで効率化を測れる。

鈴木敏文

日本最大手コンビニエンスストア・チェーン「セブンーイレブンージャパン」の創業者である。東京物販販売に入社後、30歳で辞職し、イトーヨーカ堂に入社、1973年、当時の親会社イトーヨーカ堂は大規模小売店イトーヨーカドー」の出店スピードを上げている時期で、アメリカに倣ったコンビニエンスストア業態の導入は時期尚早との意見が強く、反対意見が多い中、中小小売店の経営を近代化すれば、大型店との共存共栄は可能であると考えて日本初のコンビニエンスストア「セブンーイレブン」を創設した。出店にあたっては、ドミナント戦略を徹底しており、その戦略は現在でも行われている。集中的に店舗を展開することで、専用工場や専用配送センターの使用率をあげ、効率よく営業を行える。当時は、卸売業者の方が小売業よりも力が強く、小分け配送を行っていなかったが、その部分を改変し、売れ筋や在庫数を把握することで利益を出し、セブンーイレブンにPOSシステムを導入し、POSシステムから得た情報を世界で初めてマーケティングに使った。細かい経緯は以下の通りである。開店当初は売上は良かったが、在庫も大量に抱えていたため、利益が出なかった。在庫を減らすため売れ筋商品の分析に取り組み、小分け配送を問屋に依頼した。仕入伝票を調べ、在庫の数を正確に把握、さらに売れ残っている在庫数も正確に把握し、何が売れているのかを詳しく分析し、売れ筋商品を中心に仕入れることで在庫後減り、利益が出始める。これらがPOSシステムに発展していった。

新規需要の開拓のため、深夜の買い物需要と、和製ファーストフード(おにぎりやおでん)の販売などを行った。深夜の買い物需要については今では常識となっているが24時間営業店を地方都市に出店し、仕事帰りのサラリーマンや学生、急に必要な物がある人達のニーズに応えることが出来た。和製ファーストフードは「家で作れるものをわざわざ買う人がいるのか」という反発を食らうも、それらを押し切って販売し、現在では当たり前のように商品棚に並ぶほど成功・定着した。

周囲の反対を押し切ってでも実現させる経営者としてのセンスやカリスマ性はもちろんだが、アメリカのやり方と日本のやり方に区別をつけて成功させた状況判断力と決断力には

驚かされた。保守的で維持志向も必要ではあるが、時には前衛的で大胆に独創性のある判断も必要であるとわかった。日本の現在の経営者はこの引き際と攻め際の適切な判断力が成功に繋がる方法の一つであると思った。