尚巴志

尚巴志は1406年に中山王・武寧、1416年に北山王・攀安知、1429 年に南山王・他魯毎を討ち、三山を統一した。中山世鑑等の史書によると、 武寧や攀安知は暴君で、癖のある人物像であったとされている。諸按司は、その中で若く英明な尚巴志を慕うようになり、彼の側についたという。さらに尚巴志は都市建設においても才能を発揮している。首里城の創建時期は不明だが、本格的な整備は尚巴志の時代に行われたとみられる。城の拡充だけではなく、周辺の環境整備を含めた大規模な首都建設事業だった。首里城はその造りからみて、護佐丸が築いた中城グスクのような戦に備える城ではなく、外国の使者を迎える「国の顔」として造営されたものと考えられている。この王城建設事業の規模の大きさを示すものとして、大里から首里まで半間ごとに人夫を 立たせて、リレー式に大里城の石を首里に運んだという首里の伝承がある。1427年に建立された「安国山樹華木之記碑」によると、王城の北に池を掘り、 樹華木を植え、城外に庭園を造営したという。池が現在の龍潭、樹華木を植えた場所が安国山(現在のハンタン山)とされ、風水を取りいれて明の王宮にならったとされている。 また翌年の1428年には城門外に首里城の築城を記念した中山門を建てた。当時、那覇首里とは隔てられた浮島と呼ばれていたが、島の南は旧来の港に比べて深く、当時の大型船が入港できる数少ない入江だった。三山統一後、尚巴志はここを港として整備し、琉球の玄関口に定めたと考えられている。

 


間切制度を確立させる等、のちに続く琉球王国の施政体系を整えた。尚巴志は間切制度という現在の市町村ともいえる行政単位を確立させた。間切制度の確立 は沖縄における地域自治システムの誕生とも捉えられる。地方と首里王府を結ぶ宿道を造ったといわれる。さらに早馬を使って、情報を伝達させていく宿次という情報伝達の体制を整えた。これによって首里からの情報を各地に、あるいは各地からの情報を首里に、間切番所を経由させて伝えるという国内の情報収集システムを確立させた。

 


鉄を入手し、農具を造り、農民に分け与えたことが農業生産性を高め、統一の足固めとなった。尚巴志が農民のために自身の剣と鉄を取り換える逸話からは、彼には早くから先見の明があり、指導者としての素質を有していたことが伝わる。尚巴志が少年の頃、鍛冶屋に命じて3年がかりで作らせた剣があった。ある日、与那原の港に来た大和商人がその剣を求めた。 尚巴志は商人と交渉し、船一杯の鉄塊と剣を交換することになり、そうして手に入れた大量の鉄を、彼は百姓に分け与え農具を作らせた。百姓たちは感服し、みな尚巴志を敬うようになったとされている。また、

稲作の二期作を導入したもしくは推進した可能性が高い。当時の最新の農業技術だった二 期作と、鉄製農具の導入によって農業集落を増加させ、すなわち国力を増強し、それに支 えられて、第一尚氏が生まれたとみることができる。

 


海外交易を拡大するとともに、冊封体制を通じて王国の政治経済力を強めた。尚巴志の鋭い先見性は海外交易においても大きく発揮された。彼は東南アジアとの貿易を 隆盛させた。シャム国との活発な交易から始まり、スマトラパレンバン、ジャワとの通 行も行なった。この南方貿易の展開により、進貢貿易をはじめとする海外交易は活気をおびていく。これら南方物産に、琉球日本物産を加えて中国進貢品とし、日本交易には中国製品・南 方物産を用い、朝鮮交易には南方・日本・琉球物産を中心にというように中継貿易的な展開がなされていく。尚巴志の時代の交易を通して、三線や紅型や泡盛といったものがアジア各地から伝わり、後の豊かな琉球文化の原型となっていく。尚巴志は明との交易も盛んに行い、交流を活発にした。尚巴志の時代、明朝の使者の柴山 が1425年以来冊封その他で五度も来琉している。その柴山は大安禅寺、下天妃 宮を創建するなどの貢献をした。明との交流を活発にすることで、その文物を取り入れる ことに努め、国を治めることに活用した。懐機(かいき)という久米村の明人を参謀として登用し、内政、外交の担当として重用した。また、朝鮮との通交の際には対馬倭寇の早田六郎次郎の船に使者を便乗させた。こ のように尚巴志は積極的に外国人を登用するなど常に国際的な視点を持ち、そのことで次々と的確な政策を打ち出すことができた。

 


15世紀に李朝朝鮮と日本の外交に活躍した李芸(りげい)という人物がいる。李芸は、倭寇に捕らわれて売られた朝鮮人を連れ戻すため、尚巴志が北山を滅ぼした1416年に琉球に もきており、44人を連れ帰った。尚巴志がこれに協力したと考えられている。尚巴志はこ のように人情に厚く、当時の国際政治をよく理解し、多忙な中でも何を行うべきかを決断 できた人物であった。三山統一前から室町幕府4代将軍・足利義持、三山統一後には6代将軍・足利義教と書簡を 交わすなど、尚巴志と父思紹は日本とも通じ、琉球の統一王であることをアピールしていた。

 


佐敷の「鬼鷲」として知られ、「豪胆にして志高い」と称えられる。

尚巴志はその人となりを王府の史記で「巴志為人肝大志高雄才蓋世」(巴志の人となりは、 豪胆にして、志高く、世を圧倒するほど雄才である)「球陽」と称えられるなど、若いときから人の心をつかむカリスマ性を備えていた。尚巴志はまた知謀にも優れており、南山滅亡に関する伝説は彼の戦略家としての側面を表 している。かつて南山の高嶺間切の屋古村というところに嘉手志川という泉があったが、 時の南山王・他魯毎は贅沢な人で、尚巴志の持つ金屏風を欲しがった。他魯毎尚巴志に 申し入れると、尚巴志は嘉手志川となら換えようと返した。そこで他魯毎は喜んで取りかえた。そして尚巴志は自分に従う百姓にはこの泉の水をやり、従わないものには使用を禁じた。そのため百姓たちは巴志に味方するようになり、南山はついに亡んだという。

尚巴志が亡くなった時、国相の懐機が中国道教の本山に送った手紙に国民が皆号泣した様

子が記されるというように、尚巴志が人々から敬愛されていたことがうかがえる。

 


参照URL https://www.city.nanjo.okinawa.jp