護佐丸について

1390年頃山田グスク按司の三男として生まれる。幼少期の名前は眞牛(まうし)と呼ばれていた。護佐丸の先祖は元々北山の今帰仁按司だったが、戦いに敗れて山田グスク按司となった。青年期になると琉球統一のための戦いの中で、一族の宿敵でもある先今帰仁城按司攀安知(はんあち)を討伐する機会を得る。その後、当時仕えていた尚巴志と共に、今帰仁城を攻め落とすことに成功する。

 


1420年頃から護佐丸は、北山討伐の後、数年だけ今帰仁グスクにて北山の監守を務める。読谷山の座喜味に築城し且つ、読谷山に戻ることを尚巴志より命ぜらる。座喜味は地形的に小高い場所にあり、地盤が弱く、本来は築城には不向きな場所であった。そんな悪条件にもかかわらず、かつて按司を務めた山田グスクの城壁を再利用、離島などからも人手を集めるなどして、通常よりも早くグスクを完成させる。この頃から築城の天才と呼ばれるにたる才覚を表し始める。

 


1439年に尚巴志が逝去し、尚忠が3代目の王となる。これを機に護佐丸は中城グスクの按司となる。一説では中山で勢力を強めていた勝連按司・阿麻和利を牽制し、首里琉球王府)を防衛するためだったと言われている。

中城グスクにおいては増築・補強を行い、籠城に備えて水源の確保などを施した。この頃、後に6代目の王(尚泰久王)となる越来王子に自分の娘を嫁がせて、より地位を高めていった。

 


1450年頃、相次ぐ王の交代、志魯・布里の乱で首里城正殿が全焼、勝連按司・阿麻和利が勢力をさらに強めたことなどが理由で、琉球王国の情勢は一気に緊張が高まる。そこで6代目の王、尚泰久王は即位後、情勢の安定化を図るため、阿麻和利に自分の娘を嫁がせるなどしていたが、護佐丸・阿麻和利の乱が巻き起こる。

 


護佐丸・阿麻和利の乱は一説によると阿麻和利が当時の王、尚泰久王に「護佐丸に謀反の疑いあり」と吹聴したことが事の発端であると言われている。自分の忠臣が謀反など起こすはずがないと、最初は信じていなかった尚泰久王だったが、家臣に中城グスクを偵察をさせたところ、なんの指示も出していないにもかかわらず、武具を揃え、兵を訓練するなど軍備万全の状態であった。これを知った尚泰久王は、謀反の準備という風に捉えてしまう。その後、尚泰久王は阿麻和利に対して「護佐丸の討伐」を命じる。しかし、護佐丸は勝連半島で勢力を高めていた阿麻和利の脅威から王府を防衛するための対抗手段として、軍備を整えていたとされている。しかし王からの疑念も晴れることなく、討伐は遂行されることとなる。中秋の宴をしていた所を阿麻和利率いる王府軍が攻めてくると、護佐丸の家臣たちは応戦を願いでたが、王府の旗をを確認し、王に逆らうことは出来ないといい、応戦をしなかった。王への忠義と謀反のの心はなかった護佐丸は、妻子ともに自害をしたとされている。唯一、三男の盛親だけは、乳母と共に乳母の故郷である糸満に逃げおおせる。後に一族の復興をはたしている。

阿麻和利が護佐丸を討った後、今度は阿麻和利が尚泰久王を討とう目論む。しかし、阿麻和利の妃、王の娘でもあり護佐丸の孫娘にあたる百度踏揚がその家臣の大城賢勇(うふぐしけんゆう)に見破られ、勝連城と共に滅亡する。

参考URL

http://gosamaru-nakagusuku.com